「女ことば」を考える
1、女ことばの成り立ち
日本では女らしさと言葉づかいが強く結びついていて、女らしい話し方の規範がある。
この規範は長い期間を経て成立してきた。
女性のためのマナー本は、鎌倉時代にまでさかのぼって見つけることができる。(中村、2012、p32)
その一つが、鎌倉時代から江戸・明治・大正時代まで広く普及した「女訓書」と呼ばれる書物である。
これは中国から入ってきたもので、結婚する娘や孫に儒教思想に基づいた女性としての振る舞いや人付き合いを示す書物である。
この時代の女訓書には、「ものをいうときは、あいまいにして感情を表さない、軽率に言わない」と書かれている。
女訓書は江戸時代には地位の高い女性だけでなく、さらに一般の女性にも広がるようになった。
江戸時代には、中世の女性観と仏教・儒教思想に茂呂づく男尊女卑感が、封建的な家制度のもとで融合した。(中村、2012、p33)
そのため江戸時代初期の女訓書では、夫、またその両親に従う嫁・妻としての役割が強調された。
江戸時代の後期からは、文字の読み書きを必要とする女子庶民の人口が増えたことに伴い、手習いの教科書として多種類の女訓書が出回るようになった。
それらにも、女のおしゃべりは社会秩序を乱すと書かれており、警戒されていることがわかる。
当時の女性たちはこれらの女訓書を書き写して、読み書きを学んだと考えられるので、同時に言葉づかいに関する規範も学ぶことになった。
このように、女訓書は何百年にもわたり「女は話すな」と語り続け、女性の話し方を規範の対象とみなす視点を形成してきた。
その後、女訓書の語り口は「女は話すな」という支配的なものから、「つつしみのある女はしゃべらない」に変化していく。
女性を支配しようという背景が見えにくくなり、話さないことがつつしみある女性という価値に結びついた。
このことは、女性が自ら話さないことにつながったのではないかと考える。
明治期に入っても、女訓書の言葉づかいに関する規範に変化はなかった。
しかし、明治時代の女訓書では「女らしい話し方の規範」を女性の国民化と良妻賢母観へと変化させた。
これまでの女性の話し方の歴史から、女性の話し方を管理することが非常に重視されていたことがわかる。
初期の女訓書からは、儒教思想や男尊女卑の考え方に基づいていたことが分かったが、次第にそれが薄れ話し方の規範を守ることが「つつしみ」の表現として受け入れられていくようになった。
【参考文献・引用文献】(著者の50音順)
小林千草(2007)、『女ことばはどこへ消えたか?』、光文社新書
中村桃子(2012)、『女ことばと日本語』、岩波新書
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